猿投 棒の手

棒の手見当流発祥の地を訪ねて

棒の手見当流の起こりは、戦国時代、織田信長が戦さで領内を離れる際に尾張領内の守兵の人手不足を補うために、尾張国内の中根南城主、織田信照(信長の異母弟)に武術に優れた本多遊無(本田遊無)を遣わし、村の百姓達に棒術を指南したのが始まりとされています。
加賀国の浪人であった本多遊無は信照や家臣達の前で見事な棒術を披露し、信照はこの棒術を気に入り奨励したと伝えられているそうです。

当時の尾張国の中心地、清州から見た場合、中根村は南東15キロに位置します。村のすぐ東を南西方向に天白川が流れており、守るには都合がよく、尾張国の最終防衛ラインであったと思われます。ここに訓練された農兵を置くというのも信長の優れたアイデアであったかもしれません。

尾張国中根村は現在の名古屋市瑞穂区中根町です。片側2車線の大きな通りを少し奥へ入った閑静な住宅街です。その中に決して大きくはないが威厳のある東八幡神社があります。ここは中根南城の支城の一つであったようです。樹齢何十年かの大きな楠や橘の紋の入った鳥居や馬像が印象に残ります。神社の奥の方には棒の手見当流の碑がひっそりとたたずんでいます。
毎年10月の第2日曜日に中根の東八幡社にて棒の手見当流の演技奉納が行われるそうです。
猿投祭りと重なる為、見に行く事が出来ないのが非常に残念です。

名古屋市瑞穂区中根 東八幡社

棒の手見当流の碑、裏側に
遠祖 本田氏遊無公 祖 戸田源左衛門 という名前が見てとれます。

晩年の遊無は織田氏が没落したあと、再び浪人となりますが、春日井郡品野村(現瀬戸市品野)の戸田源左衛門の力を借り道場を起こし尾張や西三河から広く門人を集め棒の手見当流を広めたそうです。遊無なき後、戸田源左衛門が遊無の後を継ぎ棒の手見当流の発展に貢献したようです。

※遊無と源左衛門に時代的接点がないとも言われています。